壁打ち音楽日記

おんがく好きが、誰に言うでもなく呟きまくるところ

嘆きます!!

ばんごはんが、コンビニ弁当になるの嫌っ!!!

残業が増えているので、全然早く家に帰れなくって、家に帰れなくってまず気がつくのが「ごはんちゃんと食べたい」という強い気持ち。私はごはんに生かされている。作るの面倒だけど、ちゃんと食べてる実感を得られるので、面倒ながら自炊したいと思う。

次に気がつくのが、朝の貴重な自由な1時間が眠くて眠くて、家事やら曲作りに当てられない、体力も時間も削られて無くなっていることへの怒り。

そして残業時間中に、先輩から起こってもないリスクや実らない絵空事を展開され、それを黙って聞くしかできず、「効率よく時間を使いませんか?」と言えない私自身へのモヤモヤ…。

うーん。

歳を取るにつれ、時間が限りのあるものに感じられて、「あれもしたいこれもしたい」が膨らむし何もしないことがもったいなく感じられる。すきま時間の使い方を考えるのも楽しい。数分間でも妹とくだらぬ馬鹿話をするのも楽しい。家でカステラ食べながらお喋りするのも楽しいし、忙しなく色々やるのもまたこれはこれで良い。

しかしそれもこれも、こんな働き方ではなし得ない。

こうやって仕事への情熱などが入社して時間が経つにつれ、どんどんどんどんしぼんでいくので、私の志望動機はやっぱ嘘だったなって実感するのでした。

書きつけるために書く。

モヤモヤしたことを、モヤモヤしたままに文章に起こすと、気持ち悪くて仕方がないですね。自分で読んでみると、いかに今自分が悩んでいるかが伝わるってくるのですが、文体と雰囲気と世界観が暗くて独特で、読んでいて嫌気がさしてきます。

一方で嫌気がさす内容を直視しないと、前に進めない気もします。…とはいえ誰もが読めるような媒体で、わざわざ気持ち悪い内容を書きつける必要もないですね…。

私のジメジメというと、もともと暗くて内省的な人間なので仕方ない気もしますが、ツイッターみたいな明るく社交的な場には似つかわしくないジメジメ具合。そしてジメジメツイートをするとたいていフォロワーさんが何人か減るので、それはそれで見ていて面白くもあります。ジメジメのお返事を世の中から貰ってるみたいだし、確かに私のジメジメが誰かに伝わったなと、謎の手応えを感じます。

ところで目に見えない世界を見ようと努力して、整理して、事実を新しい解釈で捉え直すのは、とても面白いものです。ツイッターで露骨にジメジメしても見向きもされないとは思いますが、そんな時間も時には必要かな。

と思っているので、自分の気持ちを持て余して、もがいている人を見かけたら、心の中でフレーフレーと手旗を振ります。

表面には出しません、声もかけないし反応もしません、でも心で手旗を振っています。

どんなところでも、どんな状況でも、どこかで誰かしらは見ているものです。自分も誰かに手旗を振りながら、他の誰かも私に手旗を振ってくれているんだろうとなぜだか信じられます。

要は、自分の信じる道を行くのだ。

めも。

原敬子先生のことば。

どんなに悔しいことや後悔するようなことがあったとしても、いつの日かあれがあったから今の私があるんだ、って思う日が来る。だから避けてはダメ、逃げてはダメ。

体験、経験に勝る学習はない。

表面的に出る言葉を鵜呑みにしてしまうと、真実は見えてこない。

無尽蔵の愛はあり得るか

家族にはいろいろな形がありますが、理想的な親は、子どもに愛情を注いで育てるんだと思うのです。

疲れている時もあるかもしれないけど、子どもからの愛情を求めるサインに気がついて、愛情かけて接するのかなと。

例えば子どもでなくとも、周り人の愛情を求めるサインに応じることもあるかもしれない。

産まれた瞬間から巣立つまで、ずっとずっと愛情を注ぐとなると、いつかはその愛情も尽き果てるのでは思ってしまいますが、そうでもないのかな。どんなに仕事で疲れていても、この子には私しかいないんだって思ったら、力が湧いてくるのか。これが無償の愛というものなのか。

マザーテレサの愛情は、無償の愛なのか。無尽蔵の愛だったのか。

どんなに傷ついても、人を愛することはできるのか?

腹を括れば、傷つけられても愛は湧いてくるのか?

たしかに傷つけられても許せるということは大きな愛だと思う。誰かをすごく傷つけて、「こんなことして普通は許されないよね」ってことを許されたとき、そこに無償の愛を感じる。

かたや、傷つけられた方でいえば、どんなに傷つけられても許せるようになれるのか?そもそも根っこの部分に無償の愛がなければ難しいのでは?傷つけられても私はこの子を守る、みたいな揺らがないなにかがないと、よし許そうってならないよね。

そして、誰かに愛を与えても、自分には無償の愛は要求しない姿勢もないといけないかもしれない。要求は奪い合いの始まり。

かと言って、与えることは一方通行。一方通行がつづくと辛い。自分はもらえないけど、人に与え続ける。

与え続ける辛さを乗り越えるのが無償の愛なのか。

…与え続けることは辛さなのか?喜びなのか?

自分はもらえないのに、人にあげないといけない、となったときに、そうは言っても私も欲しい、といって他人にすがると奪い合いになる。

与え続けるには、他人にすがらずに何か別のものを信じるしかないのか。

それが信念か。

なかなか伝わらなくても思い続ける気持ち。

たぶん

創作する人は概ねそうだと思うのですが、活動の中で嫌なことに出会ったり辛くなったりするときに、ひと言好きと言ってもらえるだけで、その言葉にしがみついて立ち上がれるのかなと思うのです。

みんな生活がある中で、少しの時間を私の曲に割いてくれることが嬉しいし、昔もらった言葉にすがったりして、前を向き直すのかなと思うのです。

そして私は自分の曲にもすがって、その曲を作ったときの気持ちだとか、そのときの自分がなににうつくしさをかんじていたかとか、描きたかった音の美しさを削り出して生み出したんだなという自負だとか、そういうものを支えに立ち上がろうとする。

もし子どもに伝えるならどうする?

もし、子どもが「自分の未熟さゆえに出来ないこと」に対して癇癪を起こしていたらどうする?

もし、子どもが友だちと喧嘩して仲直りできないでいたら、なんで声をかける?

例えば、失敗して落ち込んでいたら?何かを他人のせいにして、自分の言動を全く反省していなかったら?

こういう時って、大人であっても自分でなかなか気持ちの整理ができないし、事実と向き合うのはつらい。

それを「こういう場面で子どもに声をかけるなら?」と仮定して考えると、出来事を客観的に捉えられるから良いかもって思った。

普段から自分にかける言葉が厳しいと、その分だけ人にも厳しくなる。未熟なものに対する声かけも、本来そのものを伸ばすための後押しの言葉ではなくて、未熟なことを責め立てる言葉になる。

最近の私は、自分を労り励ます気持ちが吹き飛んで、自分を叱咤叱咤、とにかく叱咤し続けて、いつの間にか気持ちがささくれていた。

何かに詳しくなると自分の未熟さが昔よりも色濃く見えてきて、時間の掛け方や取り組み方にもだんだん許せない部分が増えてくる。どうやら無知なときよりも詳しくなってからの方が、心のバランスを取るのが難しくなるようだ。

昔は例えば両親に「すごいじゃん」と言われた言葉をそのまま鵜呑みにしてこれたけど、いろんなものを知ってしまうと、その「すごいじゃん」の一言が信じられない。「お世辞でしょ?」「実際まだまだだけどね」とかいう冷たい言葉で、自分の気持ちを谷底に突き落とす。

詳しくなってからの方が、楽しく続けることは難しい。

生きれば生きるほど、道の険しさや己の未熟さを知るから、謙虚になるし、自分に厳しくもなる。

その分だけ、他人を伸ばす言葉、自分を後押しする言葉を、自分の辞書にたくさんインプットしないといけない。

ということを意識しないとな。

静かなきもち

元気がある時と、元気がない時が、入れ替わり立ち替わりやってきます。そんなとき、お気に入りの文章、お気に入りのブログをそっと覗き見して、更新されていることを確認して、こっそり読んで楽しむうちに、自然と静かで穏やかな気持ちになります。

SNSは忙しなくていつも誰かがお喋りしているけど、ブログには文章を書いているその人、ただひとりしかいない。書き手に静かに語りかけられているような気分。

静かな気持ちを忘れかけたとき、いつも自分の中心に引き戻してもらっています。書いてる方はそんな気ないと思うのですが、とてもありがたいことです。