壁打ち音楽日記

おんがく好きが、誰に言うでもなく呟きまくるところ

無性に

無性に何かをしたいとき、とことんやり切れば、出来の良し悪しに関わらず何かしら自分の身になっているなぁとふと気がついたので。

高校生の頃、どうしてもラヴェルの水の戯れが弾きたくて、暗譜も含めて1年くらいずーっと練習してた。ピアノど下手くそなので、ほとんど根性で指動かして、できなかったところは何度も練習して、CDと聴き比べて下手さにショックを受けつつ、それでも曲が好きだから根性で投げ出さず練習した。

通っていたピアノ教室の演奏会で成果を披露するも、あがり症なのでミスタッチをしたような気がして、大満足の出来とはいかなかったけれども、なんとか弾いてやったぞ、という満足感はあった。

そのおかげか、今、キーボードをなんの気なく押したとき、和音を弾いたときに、和音の細かい機能は分からなくても指が覚えているから印象派っぽい響きを作ることができるのかなと思う。

プーランクみたいな進行も、プーランクが好きでたくさん聴いてきたからできるのであって、やはり好きなものがきっかけで前進するのかなぁと。

つかず離れず遠すぎず。

いつもそれとなく眺め、眺められていつつ

なんとなく話しかけないくらいの距離感が好きです。

孤独好きで、お喋り苦手で、同じ空間に誰かがいるのは嫌ではなく、干渉しないくらいの距離に常にいる、って言うのが、私としては最適。

静かに世界を眺めていて、いろんなことを思っていながら、顔色ひとつ表に出さないとか。そういう人って、内側が深くて広い宇宙みたいで、私が思いもよらないこと、物の見方を、いとも簡単に思いついたかのように喋ってくれたりする。

外に出てこない考えが、自分の中で跳ね返って跳ね返って、揉まれて育って、やっと表に出てきている感じ。そういうのいいよね。

ふと思ったので。

いそがしいんだぁ

心のゆとりがなくってさぁ。

DTMをするには体力が足りないなって思い、本を読むことにした。生き物がどういう世界で生きているかっていう本。

ダニは目が見えないけど、動物の汗に含まれる成分を知覚して、動物の体にくっつくんだって。…と書いてあって、私が見ている林や草むら、そこを通り過ぎる猫とか生き物の姿は全く分からなくて、でもなんだか分からないけど香り?だけは感知できる、そんな世界って一体どんなもんなのかなぁと。

ここから先は私の想像だけど、例えば近所の公園で耳が裂けるくらい秋の虫のリーンリーンと鳴く声が聞こえるけど、当の本人たちは音を音として感知してるのかな?振動をどこで感じるんだろう。周波数の違いは聞き分けられるのだろうか。

その生き物がどんな感覚器官を持っているか想像して、どんな世界を感じているのか想像するなど、自分と違う生き物ごっこをして遊んでいます。

仕事切羽詰ってて心のゆとりがなくってね。

和声のお勉強

暇を見つけては、芸大和声をダラダラ勉強しているけど、ちょっと身になっている感じがする。結構耳が良くなった。

①既存の曲を聴いて、Ⅰ、Ⅱ、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵくらいは和音を聞いた時に聞き分けられるようになった。

②メロディが三和音の和声の中の音か、外の音か程度のことなら気が向くようになった。

ドビュッシーの曲、これまで「きれいだな〜」くらいにしか思っていなかったけど、和音を鳴らしたときの7、9番目の音がたくさん入っていること、調が変わっているように聞こえる部分が多くあるのに気がついた。

④教本で肯定していないであろう響きも良いよねって、改めて思った。ていうかなんでもありじゃん?

3巻からが本番という話はよく聞くので、なんとかそこまでは到達したいけど、第1転回系ですでに悲鳴を上げているようじゃまだまだだなぁと思う次第です。

がんばる。

挫折とか才能

音楽についての挫折は昔経験済みで、それでも夢見ることが楽しい。

楽器の演奏はすーぐいやになって放り出したけど、なかなか曲作りは嫌にならない。

勉強すればするほど、なにか素晴らしいものを見たような気がすることに出会う。曲を作っている最中に、音の響きそのものに癒される。市販の音源のひとつの音から、録音のために演奏している誰かの伸びやかな姿が思い浮かんだときの、恋い焦がれるような気持ち。

私が音楽と向き合う中で出会うひとつひとつのことが、他人には些細で理解できないことかもしれないけど、私にとっては毎回素晴らしい経験になるし、それが良いからやめられない。

演奏の才能は正直全然無い自覚はある。でも音楽は好き。曲作りの才能はあるかどうか自分じゃ全然分からない。でも音楽は好き。

自分と音楽との閉鎖的な関係の中で完結している。次から次へと新しいものに出会いたいから、ずっと続けていられる。

三者から、「君才能ないよ、作り方変えないと先がないよ」と言われたときにどう思うか。以前なら、傷ついてトラウマになって音楽辞めちゃうかもしれないけど、今なら傷つきはしても、もはや才能なくても追求する気がする。よく分からないけど進まずにはいられない。

だから、私にとっての音楽、超大事。

大学のときのことを思い出した。

卒論、ゼミに所属していたけど、そのゼミとは全く別の分野に書きたいものがあった。ゼミを移るという発想が無かったから、自分でボランティアをしたり、その伝手を辿って、役所の方とかに話を聞かせていただいたり、そこで知り合った方に紹介された本を読んで、論文を書き進めた。

「教官が誰だから研究に手伝ってやろう」というのではなく、無名の見知らぬ大学生に良くしていただいた大人の方々には、本当に感謝した。一方で、自分には肩書きも何もないと知っていたからこそとても緊張したし、恐れ多かったし、同じ土俵で話すほどの知識も技量も経験もなかったから、虚勢を張りつつ頑張った記憶がある。当時の私は今より礼儀知らずだったな。

そういう思いをしながら、100ページくらいの論文をしたためた。今の職場の同僚は卒論を当日の入稿まで書き直してたって言ってだけど、そういえば私は半年くらいかけてコツコツ書き進めたなぁ。ほんとよくやったな、そんな力は一体どこから湧いてくるんだろう。

論文のテーマ設定は、身近に転がっていた問題意識に焦点を当てた。これを書き進めたら何か掴めるんじゃないかという気持ちで、コツコツ努力したけど、掴めたことはなんだったかな。

二度と得られぬ時間だし、同じ努力はとても出来そうにない。

そういう積み重ねの結果に今の私があり、今の仕事、今の生活があるんだよな。私はいつも自分の努力に救われているし、心優しい周りの方に救われているし、運がいい。

急に

急に、外を歩いていて、聞こえてくるすべての音を「好きだなぁ」と思うときがやってきます。

足音一つ、遠くで鳴く鳥の声、車が手前から奥に走り抜ける音、風が耳にあたってごごごと鳴る、そういうもののひとつひとつが聞こえることをありがたいと思える時間。

こういう感覚には、忙しい日々ではなかなかなれなくて。きっと一昨日あたりに山へ出かけて、2時間ばかりただぼうっとする時間ができたからかなぁと思っています。

音響系エフェクトをいじれるようになってきて、ようやく音の成分を聞き分けられるようになり始めて、それで余計に楽しい。

感覚への刺激は、豊かな生に不可欠。