壁打ち音楽日記

おんがく好きが、誰に言うでもなく呟きまくるところ

無尽蔵の愛はあり得るか

家族にはいろいろな形がありますが、理想的な親は、子どもに愛情を注いで育てるんだと思うのです。

疲れている時もあるかもしれないけど、子どもからの愛情を求めるサインに気がついて、愛情かけて接するのかなと。

例えば子どもでなくとも、周り人の愛情を求めるサインに応じることもあるかもしれない。

産まれた瞬間から巣立つまで、ずっとずっと愛情を注ぐとなると、いつかはその愛情も尽き果てるのでは思ってしまいますが、そうでもないのかな。どんなに仕事で疲れていても、この子には私しかいないんだって思ったら、力が湧いてくるのか。これが無償の愛というものなのか。

マザーテレサの愛情は、無償の愛なのか。無尽蔵の愛だったのか。

どんなに傷ついても、人を愛することはできるのか?

腹を括れば、傷つけられても愛は湧いてくるのか?

たしかに傷つけられても許せるということは大きな愛だと思う。誰かをすごく傷つけて、「こんなことして普通は許されないよね」ってことを許されたとき、そこに無償の愛を感じる。

かたや、傷つけられた方でいえば、どんなに傷つけられても許せるようになれるのか?そもそも根っこの部分に無償の愛がなければ難しいのでは?傷つけられても私はこの子を守る、みたいな揺らがないなにかがないと、よし許そうってならないよね。

そして、誰かに愛を与えても、自分には無償の愛は要求しない姿勢もないといけないかもしれない。要求は奪い合いの始まり。

かと言って、与えることは一方通行。一方通行がつづくと辛い。自分はもらえないけど、人に与え続ける。

与え続ける辛さを乗り越えるのが無償の愛なのか。

…与え続けることは辛さなのか?喜びなのか?

自分はもらえないのに、人にあげないといけない、となったときに、そうは言っても私も欲しい、といって他人にすがると奪い合いになる。

与え続けるには、他人にすがらずに何か別のものを信じるしかないのか。

それが信念か。

なかなか伝わらなくても思い続ける気持ち。